こんにちは!ミノるです。
ノーベル平和賞に選ばれたICANの授賞式を12月10日に控え 、
被爆者として初めて講演を行うサーロー節子さんが
ノルウェーのオスロで会見を開いています。
これまでに様々な機会で平和と核兵器の廃絶を訴える
スピーチを続けているサーローさんについて調べてみました。
13歳の時に広島に落ちた原爆で被爆して72年の月日が流れ、
すでに80歳を超えたサーロー節子さんを支える
夫やご家族についても調べました。
スポンサーリンク
サーロー節子さんのこれまでのスピーチの内容とは?
被爆者のサーロー節子さん
「広島のことをお話するときに、亡くなった人たちの魂の存在を感じる。その人たちの代弁者という気持ちがある。日本政府にもその責任感を感じてほしい、感じるべきだと」 #報ステ pic.twitter.com/AU3k1ba0eI
— 佐藤こうへい (@kou_antiwar) 2017年12月8日
ノーベル平和賞の授賞式が行われるノルウェーのオスロで
被爆者の代表としてスピーチするサーロー節子さんは、
9日に開かれた会見の中で、
「被爆者が 経験したことを人類は二度と経験してはいけません。
いま、世界は生きるうえでさらに 危険な場所になってきています」
というメッセージを発信していました。
1945年8月6日、広島に原爆が落ちてから72年の月日が流れました。
唯一の被爆者の一人として、
世界が同じ過ちを繰り返してはいけないことを
常に唱えていたサーローさんの平和への願い。
しかし、世界は未だに核兵器を放棄することもなく、
更にその脅威を成長させ続けています。
そして、現在も核という絶望に繋がる脅威を誇示しようと
開発をもくろむ国が生まれています。
そこには核兵器の根絶とは相反する世界の歴史があります。
それでもサーローさんは被爆者の代表として核兵器廃絶を訴え続けました。
そして、7月7日にニューヨークの国連本部で
核兵器禁止条約が採択された瞬間を見届けたサーローさんは、
会議の最後にスピーチの機会を与えられて感謝の言葉を世界へ発信していました。
スポンサーリンク
サーロー節子さんの夫やご家族について

1945年8月6日、広島で広島女学院に通う13歳の生徒だったサーロー節子さんは、
戦時中の学徒動員によって市内の陸軍司令部施設へ配属された初日に原爆が投下され、
崩れた建物の下敷きになったものの奇跡的に命を取り留めました。
しかし、その瞬間に8人の親族と多くの同級生を失いました。
その後のサーローさんは、
広島女学院大学卒業後、1954年米国に留学。
リンチバーグ大学で1年間社会学を学んだ。
1955年、ワシントンD.C.でカナダ出身の関西学院の英語教師と結婚。
夫婦でトロントに移住し、トロント大学で社会福祉事業の修士号を取得。
ソーシャルワーカーになった。
出典:wikipedia
現在85歳になったサーロー節子さんのご家族は、
英語教師だった夫と2人の息子達なんだそうです。
愛する家族に支えられながら、
被爆して命を落とした犠牲者のためにも、
残された人生を平和と核兵器の廃絶を願うことに
捧げられているサーローさんの思いは、
平和な時代に生きている私達も一緒になって
未来へ繋いでいかなくてはいけないと思います。
スポンサーリンク
コメントを残す